新しいことに挑戦する意欲

思考力トレーナーで、人材育成をしている永江です。

新しいことに挑戦する意欲は大切です。
チャレンジするということはいつになっても意識していいただきたい。

会社に入って仕事をしていて、
だんだん業務に慣れて評価もされて、
これまでの積み重ねの上に今の役割や報酬があるとします。
積み上げてきたものは大切なものなので、それを捨てることはなかなか出来ません。

でも、
新しいチャレンジも、できるだけしたほうが良いです。

 

新たに何かに挑戦をするとき、
普通は、新しく何かを学んでいると思います。
その分野に関する勉強をして、先に知っている人に教えてもらって、
さらに、今まで出来なかったことが出来るようになっていく。

これは、自分の成長でもあるし、
年齢によっては衰えをカバーしていくことでもあります

 

そのときに、会社の立場によっては何かを捨てることになるかもしれません。
これが躊躇の原因になります。

しかし、新しい挑戦に、必ずしも「捨てる」という行為が付いてくるわけではありません。

うまく工夫をすれば、新しく得られるものは単純にプラスになり、
これまでのキャリアをさらに磨いてくれるものになるかもしれません。
理想としては、「捨てずに、得る」です。

 

もちろん、理想的な状況ばかりではありません。
例えば、会社の中での新しいチャレンジとして新規プロジェクトに参加するとします。
このときに、一旦はこれまでの業務から離れることになり、
自分が離れている間にその業務にはいろいろな変化があるかもしれません。
プロジェクトが終わって戻ってきた時に、その変化についていけなくなる可能性だってあります。

それでも、自分が新たに挑戦したことによって得るものがあれば、
プラスマイナスで、大きなプラスを作れます。

 

新しい挑戦をしないと、
何かに慣れていった脳がどんどん衰えていきます。
単純に脳トレやボケ防止を考えた場合でも、やはり新しいことに挑戦したほうが良いです。

 

闇雲になんでもかんでも手を出すのは良くないですが、
目の前にチャンスがあるのであれば、それに挑戦するほうが良いのです。

 

やらないことが無難と考える人が少なくないと思いますが、
実は、挑戦することが無難な場合が多いのではないかと思います。

5教科は不平等に勉強する

思考力トレーナーの永江です。

加賀市で小中学生向けの学習指導塾をやっています。

私の指導を受けにくる生徒は、
何かしらの苦手教科を持っている場合が多く、
親御さんとしてもその克服を希望されることがほとんどです。

そうすると、指導はその教科が中心になります。
他の教科は定期テスト前に少しおさらいをする程度。
それは、クライアントからの要望でもあるし、
私が望んでいることでもあります。

すなわち、
分からないことを分かるようになってもらいたい
という思いが私にあります。

 

そもそも、主要五教科について、
同じような時間配分で勉強するのは好ましくないと考えています。
人によってバランスは異なるのですが、
おおむね、
国数英理社の順でいえば、
3 3 3 2 1 くらいのバランスで良いです。

繰り返しますが人によてはバランスが異なります。
だから、なんとなくの配分で捉えていただけると嬉しいです。

 

まず国語。

これは普段の生活から、社会に出たときの仕事まで、
あらゆる場面でコミュニケーションに使うものです。
それが、国語、というか、日本語です。
徹底的に勉強して、そのスキルを向上させるべきだと考えます。

また、すべての教科書は日本語で書かれているわけですから、
これがおろそかになっていては始まりません。
国語の勉強はしっかりやりましょう。

できれば、読むだけではなく、作文や発話も練習してほしいです。

 

次に数学と英語。

これは、コンスタントにやり続けると身に付きやすい教科です。
もちろんそれは他の教科にもいえるのですが、
数学的なアタマの使い方
他国の言語を使うときのアタマの使い方
これらは、教科内容そのものにもまして、将来かならず生きてきます。

「数学なんて社会に出てから使わない」
「英語なんて使うような仕事には就かない」
などという人がときどきいらっしゃいますが、
それは、出来なかった人の言い訳なのだろうなと思います。

ちゃんと勉強して、しっかり成績をおさめた人で、
このようなことを言う人に会ったことがありません。
そのものを使う機会がなかったとしても、
アタマの使い方、あるいは思考センスというのものは、
かならず大人になってから役に立ちます。

 

最後に理科と社会。

理科の一部で数学を活用するところ以外は、
基本的には覚えていく教科です。
だから、覚えるために時間を要するタイプの人は少し割合を増やします。

けれども、基本的には、後から追い込める教科なので、
優先度は少し下げて勉強してもかまいません。

ただ、それぞれのジャンルについてものすごく興味がわくことがあります。
その場合は、相性が良い、あるいは好きなものとして極められる可能性があるので、
どんどん時間を割いて勉強したら良いと思います。
好きなものは追求すればいいですね。

 

理科や社会を担当している先生には申し訳ないのですが、
主要五教科といっても、勉強に割く時間は不平等にするのが良いと思います。

ただし、この考え方は、あくまでも時間に関してです。
その内容がどれくらい重要であるか、どれくらい将来において役に立つか、
そういったことは、また別の問題です。

時間の配分についてだけ考えた時に、不平等が良いということです。

 


 


自分が使っている言葉の定義は正しいのだろうか?

思考力トレーナーの永江です。

今日は、自分が使っている言葉の定義は正しいのだろうか? というお話。

 

IQとか知能指数という言葉について、
Facebookのお友達の投稿をきっかけにして調べてみました。
ひとつの結論として感じたのは、
少なくとも日本においてはひどく誤解されてしまっているということです。
おそらく私も含めて多くの人が、
単純に「頭の良さ」を表そうとしている、と考えている(いた)でしょう。

あまりたくさんの情報源に当たったわけではありませんが、
そもそもIQが算出される知能検査の目的は「発達の度合い」を測るためにあるようです。
最初から、
いい年齢に達した大人の「アタマの良さ」を測るための計算方法ではないように思います。

その計算方法は、
 「精神年齢 ÷ 生活年齢 × 100」(従来型)
または、
 「(個人の得点 − 同じ年齢集団の平均) ÷([15分の1または16分の1] × 同じ年齢集団の標準偏差) + 100」(偏差知能指数を含む)
だそうです。

なんだか難しそうではありますが、
要するに、計算方法の中に年齢の要素を含んでいたり、
集団の中での相対的な評価だったりするわけです。

また、従来型とされる式に含まれる「精神年齢」という数値ですが、
これまた多くの人に誤解されているようです。
誤解というと言い過ぎかもしれませんが、
学術的な意味で使われるとき、
それは我々が普段の会話で使っているものとは意味が異なります。
「知能年齢」という言い方にしたほうが一般の人には理解しやすいと書かれた説明もありました。
精神性ではなくて、単に知能の発達具合を表現する数値と考えたほうが良さそうです。
IQに関する話をするときにはね。

 

「IQなんて意味ない! これからはEQだ!」という言い方もよく耳にします。
しかし、そもそもIQが評価する範囲が限られているというだけで、
IQに意味がないというのはIQを誤解しているからこその言い方だのように感じられます。
数学のテストの点数は数学の能力だけを評価しますが、
学業において意味のないものではありませんよね。
そういうことです。

範囲が限られているだけです。
その定義を理解したうえで、適切な使いかたはあるはずだと思います。

さて、このように、学術的あるいは専門家的な意味や使われ方が、
一般社会のそれとは異なる言葉は意外と多いのではないかと考えます。
思い当たるところでは「善意の第三者」などがそれです。
「善意」の意味を勘違いされたりします。
こういった言葉は、
専門に勉強している人以外に対しても各種メディアを通じて広がるので注意しましょう。
新しく生まれた言葉なども意味の取り違えに気をつけなくてはいけませんね。

 

我々は言葉によってコミュニケーションを成立させているのですが、
実はその言葉の定義やニュアンスが人によって異なります。
そのすり合わせがされないままに言葉のキャッチボールをしていると、
思わぬところに誤解が生じます。
そしてその誤解は発見されないままに、
お互いが「分かった気になって」やりとりが終了してしまうかもしれません。
気をつけたほうが良いですよ。

ここにこれだけの言葉を並べたから、
読んだ人とは定義の異なる単語もあるかもしれませんね。

 


 


数学(算数)と国語が基本だと考える理由

思考力トレーナーの永江です。

私は、小中学校の教科の中では、数学(算数)と国語が基本だと考えています。
おそらく、少なくない数の「先生」たちが同様の意見をお持ちだとも思います。

その理由はというと……

 

数学は、その名前のとおり「数」を扱う学問だと考えられがちですが、
実は、この世の摂理の基礎を学ぶ教科です。
この世の摂理は誰にも動かせない絶対的なものです。

ちょっとおおげさに書きましたが、
それくらいに、他の教科にも影響する大事な基礎理論が教科の中に盛り込まれています。
「数」というのは、そのうちの1つにすぎません。

何かの最小単位を「1」と定義し、それが同じだけあると全体で「2」。
そういった定義をもとに数の仕組みを理解し、考える。
図形の成り立ちや特徴、定理などを考えることによって、
空間把握のセンスや理論を身につける。
理論的な話を理解するために、あるいは自分が考える理論を成立させるために、
順序だてて文章を読解し、説明を組み立てるという演習を繰り返す。

こういう機会を得られるのが数学(算数)を学ぶということです。

 

国語は、我が国においては日本語を学びます。
ひらがな、カタカナ、漢字、この3種類の文字をおぼえ、
日本人どおしの意思疎通に欠かせない日本語を習得し、習熟させていきます。

文法の勉強は、論理的にものごとを考えるのが好きなタイプには
効率よい言語学習を支援するツールとなります。
詩的な表現に触れることは、
感受性を豊かにし、左右の脳全体で思考する機会を増やしてくれたりします。
古文や漢文を勉強することによって、
長い歴史の中でも変わらない価値観を学ぶことがあるかもしれません。

おそらくほとんどの日本人が死ぬまで使い続けるツールが日本語です。
社会で生きていくために必須の知識であることは間違いありません。

 

昔からよく言われるのですが
「学校で勉強していることなんて、社会で役立つことが何もない」
という、教科内容に対しての否定的な意見があります。
「因数分解なんて大人になってから使ったことない」
こんな言い方もよく耳にします。

しかし、
原則を理解し、それにしたがって論理的に考えること、
それは抽象的ですが普遍的に必要な「脳の使い方」です。

いろいろな文章形態に触れることは、
さまざまな状況において正しいコミュニケーションを図るために有効です。

誤解を恐れずに書いてしまえば、
小中学校で国語や数学(算数)の成績が悪かった人で、
そのあとで挽回するような学習をしてこなかった人は、
考えが浅かったり、コミュニケーションのミスが多かったりします。

もちろんそういう人ばかりではありませんが、少なくないと感じています。

国語、算数、数学、これらをしっかり勉強していれば、
論理的に考え、深く思考し、それらを他者としっかり共有する、
そういうクセが自然と身につくと思います。

そして、それらが出来ているならば、理科や社会科、英語にも良い影響があるはずです。
理科には数学的な問題が多く出てきますし、
社会科の内容は(当たり前ですが)国語で表現されています。
日本語がまったくダメでも英語教育は可能だと思いますが、
効率は決して良くはならないでしょうね。

 

このようなことから、数学(算数)と国語が基本だと私は考えているのです。

 


 


ビジネスの本質を大切にする話

思考力トレーナーですが、
ウェブを中心にビジネスのアドバイザーもしている永江です。

先日、あるクライアントさんのところにうかがって打合せをしていました。
そのクライアントさんは、なかなか本業の売上が伸びてこないので、
プロモーションについてウェブ活用を強化しようとお考えです。

話を分かりやすくするために、仮に飲食店だとしておきましょう。
実際には別の業態です。

 

お店に訪れるお客さんの数が思わしくないので、
ウェブを使って集客に力を入れていこうとお考えです。
お客さんが書いてくれたアンケートでも、
「インターネットで情報発信したらいいのに」
といったご意見がしばしば寄せられるそうです。

オーナーはアンケートをとても重視していて、
お店の内装についてご意見があればすぐに取り入れ、
スタッフの対応について指摘があればすぐに対応し、
同じような流れで、ウェブの集客を強化しようと考えられて、
私にご連絡をくださったのです。

 

アンケートが重要だとお考えなので、
ご承諾をいただいてアンケート内容を見せていただきました。
その中で気になったのが、食べ物の味についてのご意見です。
「○○は美味しくなかった」とか
「△△は少ししょっぱかった」といった味への不満が
少なからずご意見として確認できたのです。

そのことについてオーナーに確認したところ、
「味の改善はなかなか難しい。手間も時間もかかる。
 それよりも、内装やスタッフの事や、ネットなら手が付けられる。
 だから、味についてはゆっくりやるから、ネットをお願いしたい。」
というようなお返事でした。

 

その後も少し打合せは続いたのですが、
結局、とりあえず私がウェブのお手伝いをするのは延期とさせていただきました。
それは、営んでいるビジネスの本質が何かという点において、
少なくとも私とは価値観が違うように思えたからです。

飲食店の命は、お客さんに提供されるお食事。
それ以外の要素もビジネスには大切だけれども、
味に不満を持たれているのに、それを他のことでカバーするとは。

ウェブで情報発信をして集客につながったとして、
ネガティブなご意見を口コミサイトで書かれるのがオチではないか。
私にはそう感じられたのです。

もちろん、すぐに改善できることはすればいいし、
まず出来ることをとっとと済ませてしまうということも大切です。
しかし、本質についての改善は、不断の努力によって常に取り組んでいくべきでしょう。

 

お手伝いはあくまでも延期ということなので、
ひょっとしたら、いずれさせていただくことになるかもしれません。
そのときオーナーのお考えは変わっていないかもしれません。

今の時点で私が考えているのは、
「自分自身は、自分のビジネスの本質を何に置いているのか」ということです。
端的にいえば私のビジネスは「成長のお手伝いをすること」にあり、
そのための手法として「お伝えする」ということを採用しています。
つまり「教える」仕事ですね。

だから、他のことについては未熟な部分が出てしまうかもしれないけれども、
「教える」ということについてだけは、絶対にプロの誇りを忘れてはいけない。
そんなふうに思わされた出来事でした。

 

繰り返しますが、ここで紹介した「飲食店」というのは仮のお話で、
読んでいるあなたには、それこそ「事の本質」をご理解いただければ幸いです。

 


 


コラーニングという考え方

思考力トレーナーの永江です。

コラーニングという言葉をご存知でしょうか。

お肌のうるおいとかではありません。
コラーニングです。

「コ」と「ラーニング」に分けられます。
英語でつづると、co-learning となりますね。
ハイフンは要らないと思いますが。

この接頭辞としての「co」には、
「共に」とか「共同しての」という意味があります。
つまり、コラーニング(colearning)は、共同しての学びという意味合いの言葉です。

 

同じような言葉で「コワーキング」というものがあります。
こちらの方が知られていると思いますが、
「共同で働く」という意味から「ビジネスを共同で実行する」というニュアンスがあります。

コワーキング・スペースといえば、
SOHOや自営業の人たちが集まって仕事ができるオフィススペースで、
ただ空間を共にするだけではなく、ビジネスを共有することまで想定されています。
(もちろん、単純に空間を共有するだけのこともあります)

 

コラーニングの意味としては学びを共有するということになります。

古い形の学びは一方通行といってもいいかもしれません。
先生や師匠の立場の人から、生徒や弟子に対して教育が行われます。
基本的な学校やセミナーなどはこういう形態になっています。

それに対してコラーニングの考え方は、
場を共有する人たちが、お互いに教え合い、学び合うというものになっています。
誰かが一方的に知っていることを伝えるのではなく、
あるときは教えてもらい、あるときは教えてあげる。
そして、ときには対話や議論によって集団でまるごと学びを生み出す。

そんなイメージを持った言葉です。

 

コラーニングには場所が必要ですが、
インターネットが発達した現代ではバーチャルなものも考えられます。
ネットの掲示板で議論をしながら学び合うことも可能ですよね。

しかし、
リアルに顔を合わせてお互いに学びを得るというのは、
ネットでのやりとり以上に価値を生むのではないかとも考えられます。

たとえば学習塾では、先生が生徒からも学びを得ます。
師匠は教えるだけの存在ではなく、弟子と接することで学ぶこともあります。
そういうのは、実際に顔を合わせて話をして、
相手の表情を見ながら、呼吸を感じながらの方が良いのではないでしょうか。

 

コワーキング・スペースというものがいろいろな場所に出来てきたように、
コラーニング・スペースというのもこれから増えていくと予想しています。

私塾はそういう役割を担いうる存在でしょう。
大学などではすでに取り組んでいるところもあります。
自治体が主催する学びのイベントでは、
コラーニングの精神が盛り込まれているケースが増えてきました。

究極的には世代の壁を超えて学び合いが生まれるのがいいと思います。
子供から学べることが多くあるのはたくさんの大人が知っています。
子供の年代によってその内容も違ってきますから、
いろいろな世代が集まるコラーニング・スペースがあれば素敵ですよね。

北陸、石川、金沢、小松、加賀……、
そういう場所がどんどんと生まれるといいなと思います。

そして、実はそういう計画がひとつ進行しています。
そのうちにご紹介できると思いますが、もうちょっとお待ちください。

 

追記(2016/08/20)
その後、コラーニング・スペースの机カフェさんで、思考力セミナーを何度か開催させていただいています。
デキる塾
9月は、「仕事と暮らしに使えるフレームワーク思考」というテーマで、思考の枠組みについて体験していただきます。

 

追記(2015/03/11):その後……

その後、金沢でコラーニングのスペースの企画が具体化してきました。
私が業務上のお手伝いしているパトリさんが、
金沢市保古に新しいタイプの学びの場をオープンさせます。
まさにコラーニングな空間として運営されているこの場所は、
春のオープニングイベントを企画中で、私も楽しみにしています。

コラーニング・スペース「机カフェ」 解説準備日記

 

さらに、その後に、パトリさんのサイトで
コラーニングスペース『机カフェ』を紹介するページが出来たようです。
こちらもぜひ、ご確認ください。

春休みのオープニングイベントは、どれも楽しそうですね。
( ^ー゚)b

 


 


教えることのプロフェッショナルなら出来るはず

思考力トレーナーの永江です。
石川県の加賀市で小中学生の学習指導もしています。

あえて自慢をするわけではありませんが、
誰かに何かを教えることが私の仕事なので、
いろいろなことをお伝えしています。

そんななかで、ときどきこう言われることがあります。

「先生、たとえ話がうまいですね」
「たとえ話が分かりやすくて良かったです」

 

教え方の良し悪しは、
たとえ話がうまく出来るかどうかにあると私は考えます。
だから、この言葉は私にとっては最高の褒め言葉です。

 

なぜ、たとえ話がうまく出来ることが、
教え方の良し悪しと関係があるのかというと、
それは、たとえ話が出来るということが、
具体的な事象と抽象的な概念を
思考の中で素早く行ったり来たりできている証拠だからです。

具体的な出来事から抽象的な概念を思い描くことが出来る。
抽象的な概念から具体的な事例を挙げることが出来る。
これは教えるべき内容を本質的に理解しているからであって、
ただ頭に詰め込んだだけの知識では難しいです。

 

Aという概念に含まれる具体的な事象としてBとCがあるとします。
たとえ話が出来るということは、
Bとう事例が示されたときに、素早くAに思い至り、
そこからCという別の事例を導き出すことです。

これが出来るためには、
Aという概念を本質的に理解していなければなりません。
ただ無理矢理に記憶しただけの知識では、
Aという概念とBやCの事象を結び付けられないのです。

 

私は教えることのプロフェッショナルですから、
少なくとも教えている内容については本質を理解しています。
だから、たとえ話もうまく出来るし、
教え方が上手だとも言われるのです。

また、純粋に教えることのプロフェッショナルとしての技量があれば、
新たに仕入れたばかりの情報であっても上手に人に伝えられます。
私はまだ「どんなことでも」と言える域には達していませんが、
少しずつそんな「達人」に近づきたいと思って努力しています。

 

残念なことに、
教えることを職業としてお金をいただきながら、
これらのことを分かっていない人も多くいます。

本当に教える内容について理解しているのかどうか。
試してみるには
「たとえば? たとえば?」と何度も尋ねてみてください。
ちょっと意地悪な質問ですけどね。
プロなら対応できるはずです。

講師の席はプロフェッショナルの席

 


 


揉める会社は良い会社?

思考力トレーナーの永江です。

組織に属していると、
内部でいろんな揉め事(もめごと)が発生することがあります。
会社、サークル、町内会、などなど。
組織の大きさや種類にかかわらずあり得ることです。

熱くなって主張をぶつけ合うと、
声が大きくなってしまい、時には乱暴な言い方も出てしまいます。

そういう状態を良しとしない人もいます。
「ケンカは良くない」と。

 

しかし、
ケンカなどの揉め事のすべては組織の中で良くないことなのでしょうか。

 

揉めるのはお互いが本気になっているからです。
どうでもいいことで主張のぶつかり合いにはならないでしょう。
譲りたくない思いがあるから熱くなるのです。

「大きな声を出さなくても冷静に話しあえばいい」
たしかにそうなのですが、
思わず声が大きくなってしまうような熱意があるとも言えます。

斜に構えてシニカルな態度をとっているよりもいいです。
淡々と波風を立てずに過ごしているより、
周りとぶつかり合いながら主張しあう方が建設的かもしれません。

 

ところで、
「あなたの◎◎という主張は間違っていると思う」
と言われると、まるで自分自身が否定されたように感じる人がいます。

私見ですが、そういう受け止め方をする人ほど
議論の中身と人格評価を混同しているように思います。
そして、議論の中身を批判すべき場面で
自分自身が相手の人格批判をしています。

自分の主張をするために相手の主張を否定することはあるはずです。
主張がぶつかるということはそういうことですから。

でも人格否定はいけません。
そして、自分の主張の内容を非難されているときに、
自分自身が非難されているなどと感じてはいけません。

 

決して人格を非難しあうことなく、
お互いの主張をぶつけ合って切磋琢磨していく。
時には激しい口論も恐れない。
そんな組織の方が人間的であり、より魅力のある成果を生み出すように思います。

熱い口論も大歓迎です。

激しい口論も大歓迎
 


 


論理的な理解にも感性が必要なのではないか

思考力トレーナーの永江です。

人は物事を理解するときに、
論理的に納得することが必要だったりします。

何がどうして、なぜそうなのか。
その説明がなされていると理解しやすいですね。
ただしここで言う「説明」とは言葉に限らず、
絵で描いてあったり、形で示してあったりすることも含みます。

「ちゃんと説明してくれたら納得するよ」
という言い方があったりしますよね。

 

ところがこの「納得」ですが、
最後の最後に納得できるのは「感覚」だと私は考えています。

説明がされているものを最後には感覚で腹落ちさせる。
図示してあるものが感覚で自分の意識にフィットさせる。

最後には感覚なので、納得の仕方やしやすさには
個人個人での違いがあるんだと思います。

 

勉強や学習の場面において、
自分が納得しやすい感覚的な手法を知っていると強いです。
「僕はこの勉強法が身につきやすいんだ」
という人は、自分にフィットする感覚を知っているんでしょうね。

どんな形?
どんな文章のパターン?
どんな色をつかって?
どちらかというと右脳的な感覚のクセを自分なりに知っていると
物事を理解するときに役立つんだと思います。

納得

 


 


自分の主張を客観的にチェックする

思考力トレーナーの永江です。

何かの主張をするときに、自分が正しいと人は考えています。
だからこそ主張をするわけですから。

しかし、問題がある場合もあります。

「私はこう考える!」
「自分はこうだと思っている!」
という程度ならまだよいのですが、

「君の意見は間違っている!」
「そんな考えはダメだ!」
というような否定的な物言いが入ってくると注意が必要です。

 

自分の主張は反証されることはないのか。
反対意見が入る余地はないのか。

出来るだけ客観的な目線でチェックしたいものです。

 

客観的にチェックするために
紙などに書き出してみるのは有効です。
今ならパソコンやスマホなどで文字にするだけも効果的。

ちょっとアウトプットして「見える化」をはかるだけで
アタマの中で考えているだけよりも格段に思考がスッキリします。

スッキリした思考から、
自分の主張をチェックして相手の意見にも耳を傾ける、
そんな心構えを持ちたいですね。

思考力のトレーニングにもなるはずです。

 

思考力トレーナーのメルマガ=アタマの体操のきっかけにどうぞ。
思考力トレーナーが思考について思考するメルマガ

自分の主張をチェックする