自分のことは他人に訊く

思考力トレーナーの永江です。
キャリアコンサルタントとしてのお仕事の中で感じること。

自己理解や自己分析

進路やキャリアについての相談を受けると、自然と自己理解や自己分析の話になることが多いです。過去や現在についての自分を振り返ってもらって、そこから未来のプランを考えたりします。また、私自身も一人の事業者として自己分析をするし、その結果をもとに事業の計画を立てたりもします。これは、いちどやったらそれでいいものではなく、折に触れて、あるいは意識的に機会をもうけてやるとよいです。人は常に変化をしますから。

自己理解や自己分析というのは言葉のとおり、自分のことを知って分かっておこうとするものです。働くということに関連するものなら、経験や能力、実績などの棚卸しをします。そして、自分の性格や価値観、好みの傾向なども分析をして、どういう仕事の選択をすれば幸せな人生になるかと考えたりします。漫然と人生の選択をするよりも、やはりあるていどしっかりと考えておくのが良いと思います。

「自己」によることの限界

自己理解も自己分析も、とうぜんですが自分で自分に対して行います。でも、自分のことは自分が一番に分かっているかというとそうではありません。意外と分かっていないのが自分というものであり、そこにはどうしても限界があります。ときどき「自分のことなんだから、自分でよく分かっていますよ」という人がいらっしゃいますが、比較して一番かもしれませんが、それで十分に正確であるということもなさそうです。

また、考えてみたら分かることですが、職業として発揮すべき自分というのは主観で見えている自分ではありません。あなたが職業の中で活躍させるべきあなたは、他人から見たあなたです。あなたを評価し、あなたの活動に感謝をし、あなたの能力や人柄に惹かれて報酬を用意してくれるのは他人です。他人から見られたあなたでしか仕事は成立しません。そういう意味でも、やはり「自己」による理解や分析の限界も知っておくのが良さそうです。

インタビューを受けて得た気づき

先日に、とあるインタビューを受けました。ある媒体に掲載をしていただくためのものですが、ライターさんが私にインタビューをして、私を紹介してくださる記事を書いてくださいます。その中で「つまり、永江さんは◯◯なんですね。」と言われてハッとしました。たしかに、言われてみればそうだ。でも、自分で意識することはあまりなかった。しかし、他人から見える私はそうなんだな、と。

個人事業主としての私は自分で自分を評価することが多いです。一方でクライアントさんなどから評価をされているはずですが、客観的に言えることを明確に伝えてくれているとは限りません。むしろ遠慮をされて、感じていることでも言ってもらえていない可能性もあります。実際に、インタビューによって客観的な自分の一部を知ることができました。こうやって他人に自分を掘り下げてもらうのは非常に価値のあることだとあらためて感じた出来事でした。

コンサルティングを受けるということも、今回の私がインタビューを受けたことに似た価値があります。自分では気づかない自分のことに気づかせてもらえるチャンスとなります。自分のことは自分が分かっているとは断定せずに、自分が気づいていない自分に気づくために、他人に訊いてみることをお勧めします。

 


 



利益の使いみち

思考力トレーナーで、人材育成コンサルタントの永江です。
私は、人事部門を専門として経営士会の正会員登録をし、コンサルタントとして活動しています。
人事部門が専門ではあるのですが、コンサルタントですから、とうぜんながら経営全般についてのご相談もお受けいたします。

会社の利益とは

まず、経営者の人なら分かるはずですが、会社の利益とは、社長が受け取るお金のことではありません。オーナー社長であっても、会社という法人から報酬をいただくことになるし、会社の利益とは、期末などの決算が終わったあとに増えている純資産のことです。

ここの違いが分からない人は、このあとを読まないほうがいいかもしれません。

利益の使いみちと、注意点

先に書いておきますが、会社の利益の使いみちを、スパーンと1つの正解としてこの記事で書くわけではありません。私自身がいろいろ考えてみて、先人たちの記録や著述などから学び、あれこれ書いてみるにすぎません。

まず、利益が確保されたら、次の期間における投資として、さらに利益が生まれるような使いみちを考えます。設備投資かもしれません。これまでにやっていない広告宣伝になるかもしれません。もちろん、従業員へのボーナスも考えられるし、福利厚生という形で社員に還元することも考えられます。

しかし、このときに注意したほうがいいと思っていることがあります。それは、スタッフに還元する社長が良い社長であると思われがちということです。世の中に多くありそうなこの考えには経営者として注意したいところです。もちろん、従業員に還元することは良いことです。ただし、それが、慈悲とか慈愛とか、なにかボランタリーな、というか、優しい人柄の現れとしてのものではないということです。

お金の使いみちは事業をうまく運営するため、さらなる利益のため

企業は資産を活用してさらに資産を増やす、つまり利益を追求する存在です。だから、仮にスタッフ等への配分があったとしても、それは利益追求活動の一貫でなくていけません。「あまったから、みんなに分けてあげる」という考えだけでは経営者として失格です。もちろん、そういう考え自体がダメというわけではありません。しかし、会社の資産は会社の存在意義のために使うという大原則を曲げてはいけないということです。

だから、スタッフに還元するならするで、それが、スタッフのモチベーションになるとか、次への活力になるとか、そういう効果も必要なのです。あるいは、引き止め効果があるとか、新しい人材確保のネタになるとかがあればOK。こういうことを言うと打算的だとか、ドライだとか言われるかもしれません。しかし、会社のお金を何に使うのか、それは会社のためという目的が無いのはむしろ法人に対する背任行為です。そうなるとむしろ罪。社長といえども法人に対しての背任はいけないし、利益の使いみちはちゃんと考えなくてはいけません。


 



ノートの書き方、メモのとり方

思考力トレーナーの永江です。
以前にもブログ記事として書いたことがありますが、ノートの書き方はなんでもいいというわけじゃないというお話。

たとえば中学生のノートの個性

たとえば中学生の学習ノートを見ると、書き方はその子の性格も反映してか、本当にさまざまです。ビッチリ隙間なく埋めている子もいれば、自由奔放にあっちこっちに文字が踊っているものもあります。特に、板書用ではなく自分が自由に使えるものだと、その違いはむしろ見るのが楽しくなるほど大きいです。

大人が仕事で実施するメモとりも様々

仕事で電話をとることがある人は、メモをとる機会も同時にあると思います。あるいは、上司からの指示を聞きながらメモをとるということもあると思います。そのときもやはり人によって個性があります。中にはあとで見るとさっぱり分からない状態になっている人もいます。逆に、他人が見てもすごく読みやすく、キレイな文字で読みやすく書かれているものもあります。とにかくメモ取りもさまざまです。

どうでもいいわけじゃない

中学生のノートにしても、社会人のメモにしても、何かの目的があって書いているはずです。目的に合うように紙と筆記用具を使うなら、目的に合うような使い方があるはずです。そのときに「書く」ということをのみ目的としてしまっては適切でない状態になります。そのときに耳にしていることをしっかりに認識するためなのに出来ていないとか、あとで読む必要があるのに読めない文字になっているとか。そんなことにならないように、常に、ノートも、メモも、書き方には注意をしたほうが良いです。

少し具体的なことを書いておくと、文字があとで読めるレベルで書かれていること、どういうふうに紙の上にレイアウトしていくのかを感がていること、縦横の並びを意識すること、などが基本的なものとして有効です。これらのことにちょっと注意しながら書くようにすると良いかと思います。

お金を払って得られるもの

思考力トレーナーの永江です。
今日のお話は、ふと考えてみたこと。
お金を使うことで……。

生きていくためにお金が必要

おそらく日本で生きているほとんどの人が、生きるためにどうしても必要なものをお金によって得ています。食べ物、飲み物、生活の拠点(家など)、水道光熱費などにあたるものなどにお金が必要です。その他にも、私の場合は通信費がないと仕事にならないし、自動車に関係するものも無ければ仕事に出かけられません。

どのようなものが生きるために必要なのかは人によって異なる部分もあります。でも、なんらか、絶対に必要なものをお金によって得なければいけないという点はすべての人に共通すると思います。お金を払って得られるもののひとつ、まず、生きていくために必要なものが挙げられます。

より充実した居心地

今日、この記事を書くきっかけになったのがこの部分です。ある打ち合わせの予定を、いつもの場所ではなく、レンタルスペースで実施することを思いつきました。ちょっとそれが必要な事情があってのことなのですが、とにかく場所を変えるアイデアです。そして、その場所の候補にいくつか考えたのは「居心地が良さそうな素敵空間」ばかり。どうせ変化があるなら、良い方向での変化を求めてのことでした。

変化した先の場所だともろもろの収支を考えるとちょっとだけ出費が増えます。でも、そのちょっとだけ増える出費によって、いつもより素敵な空間での打ち合わせができるんです。打ち合わせそのものにはその空間の素敵さは必要ないのですが、過ごす時間がなんとなく充実したものになりそうな空間でした。得られるものは単にいつもより少し良い居心地だけ。それでも、お金を払って得るものとしては良いものなんじゃないかと感じました。

増えて返ってくる投資としての支払い

ビジネスをやっている人なら誰でも考えることですが、どうせお金を使うならば、投資となって後で増えて返ってくるのがよいです。上述したものはそれの期待があまりないですが、明らかに期待して出費するものは確かにあります。

投資家が行うまさに投資はそうだと思いますし、一般の人でも、投資だと考えて支出をするケースが少なくないと思います。たとえば、社会人の方が資格などのためにする勉強にかかる費用。これなんかは、その後に可能性がある仕事と、それにともなう収入が期待されています。継続的なその収入が期待できるのであれば、資格取得のためにかかる費用(学校や講座、受験料など)は安いものだと考えられるわけです。

お金を払って得られるもの

お金を払って得られるものはいろいろあります。いろいろあるのですが、目の前にある物品やサービスだけではないというのが重要です。そこに付随して得られる感覚や、有効な投資として増えて返ってくる資産。そういう目に見えないものに意識を向けてみるのも良いのではないかと思います。

 


 



上に立つものが持つ「ちゃんと説明する」という責任

思考力トレーナーで、人事系コンサルタントの永江です。

そういうものだから、そうする。決まりだから、ルールだから。

しばしば耳にすることです。学習塾や学校で生徒が「どうしてそうなるの?」と先生に尋ねます。それにたいして先生の答えが「そういうものだから、そう覚えておいて。」というもの。会社でも同様の場面があって、私自身が何度も出くわしました。部下が上司に「これをこうするのは、なぜでしょうか?」と質問すると、上司が部下に答えるのが「会社の決定だから。」とか「そういう決まりだから。」というものです。

言葉の意味として間違いではないんですよね。そういうものだから、そうする、そうなる。決まりだから、そうする。決定事項であるからそうする。それ自体は間違ってはいないことがほとんだと思います。

理由を伝えられないことの弊害やデメリット

そういうものであるとか、決まりであるとかは、たしかにそのとおりなのでしょうが、言われたほうはそれで納得するのでしょうか。私が接するケースだけではないと思うのですが、やはりどこかに不満げな感じになってしまうと思います。学校や塾の生徒なら、モヤモヤした感じで無理やり覚えようとするから勉強が楽しくありません。会社の部下なら、不満を持ちながらその業務にあたることになります。

子供の勉強についていえば、せっかく持った「どうしてだろう?」という好奇心を阻害することになります。会社の部下の例でいうと、意欲が低い状態で仕事をするのでパフォーマンスが悪くなる可能性があります。いずれにしても、理由が説明できないというのはあまりよろしくありmせん。

「そういうもの」だと伝えがちになる3つのパターン

学習塾や学校の勉強の場合は、事実として「そういうもの」だと言えるケースが3つに分類できます。ひとつは自然の摂理としてそうであるもの。2つめが、便宜上で誰かがそうだと決めて一般的に運用されていもの。3つめは、それによって成立する定理のようなものです。

1つめの自然の摂理は、たとえば万有引力があることのように、いわば「神がそうしたもうたこと」です。おそらくいくらつきつめても「理由」は分からず、せいぜい、「原理」を解明できるくらいでしょう。こういうものの説明に、私の場合なら、まさに「神様がそうしたのだ」と言います。これについては「理由などない」と言ってもいいし、我々が生きているこの世界は、そういう「神の創造物」のうえに成り立っています。

2つめのものは、たとえば数学で使う加減乗除の記号「+、ー、×、÷」や等号「=」や不等号「>、<」、簿記において貸借のどちらのグループを右にするのか、左にするのか、といった事柄などです。これらは、そもそもそうじゃなくても問題はなかったのですが、いったん誰かがそういうふうに決めて、あるいは自然に共通の符号としてみんなが使うようになって、それで、後世に生きる我々もそれに倣っているだけというものです。だから、これらについて「なぜ?」と質問されたら、私は、「誰かがそう決めた。誰かが決めなければ話が進まなかった。進めてくれた人に感謝しながら、それに倣って我々も話を進めよう。」と説明します。

3つめについては、1つめと2つめによって成立する事柄なので、それを使って説明できます。だから、3つめのことについて質問されて答えられないとしたら、その事柄について知識がないか、怠慢か、口止めをされているか、のどれかです。知識がないなら「すまないが、知らないのだ。」と正直に言う潔さがほしいところです。怠慢は論外なので心を入れ替えましょう。口止めというほどじゃなくても会社の場合なら、立場上の問題で言えないこともあると思います。この場合も「決まりだから」や「会社が決めたことだから」ではなくて、もっと上手な言い方を考えるべきだと思います。「すまないが、今は言えないのだ。申し訳ない。」と素直に言える上司のほうが部下は信頼するんじゃないでしょうか。

「上に立つ」ものの心構えとしての「ちゃんと説明する」姿勢

私は、上述の3つのパターンを意識したうえで「そういうものだから」と言っておしまいにすることを出来るだけ避けています。神様がそういうふうに作ったことと、誰かがそういうふうに決めたこと。これらは、本当にそのように伝えます。そして3つめのパターンについては全力で説明をします。分からない場合は「分からない」と答えます。塾の学習指導の場合は、自分への宿題として、次回までに調べて答えるようにしています。

会社員として働いていたときも、部下から質問されたときに「そういうもの」という言い方はぜったいにしないようにしていました。自分がそういう言われ方をしたときに納得できなかったからです。ときには、同僚の管理職が部下に対して「会社が決めたから」と言っているのを聞いて「彼にとってはあなたが『会社』なのだから、そういう言い方では不満が残る」と主張したこともあります。これは今になって考えると越権行為であった可能性もありますが……。

いずれにせよ、下から仰ぎ見られながら質問を受けたときに、それを受ける立場の人間は「ちゃんと説明する」姿勢が重要だと思います。そうでなければその立場にいることの責任を果たしているとはいえないとさえ思います。「調べてからあとで答える」でもかまわないと考えればそれほど大変ではないはずです。上に立つ人の心構えとして持っているといいのではないでしょうか。

 


 



言葉の定義を大切にすること

思考力トレーナーの永江です。
言葉には意味があって、その意味を共有できるからコミュニケーションが成立します。

辞書に載っている「言葉の定義」

国語辞典などには、言葉が持っている意味が掲載されています。ひとつひとつが「言葉の定義」と言ってもいいのではないかと思います。言葉によっては複数の意味があって、数字をふって順番に説明されています。知らない言葉であればその意味を知ることができて、知っている言葉であっても自分の知らなかった意味に出会うことができます。基本的に、辞書に載っている「言葉の定義」は、学者さんというか、その言語の専門家の方々が認定されたものだと思いますが、あるていど広く一般的な使い方に沿ったものだと思います。だから、辞書に掲載されている意味でその言葉を使っていれば、間違いということはないはずです。

自分自身の認識をもとに言葉を使う

では、我々がふだんから辞書に載っている意味で言葉を使っているかというと、実はそうではありません。辞書を片手に確認しながら言葉を使うことはないですから。ふだん言葉を使うときは、自分の頭の中にある認識をもとに作文しています。場合によっては辞書を見ることもあると思いますが、ほとんどの場合で、我々は自分自身の認識をもとに言葉を使っているわけです。

人によって言葉の認識にズレがあり、誤解が生まれる要因となる

あるひとつの言葉についてお互いが持っている認識がピッタリと合致していれば誤解を生んだりすることも少なくなるでしょう。でも、ちょっとした認識のズレはどうしても発生します。ある言葉に持っている認識、そして、その言葉から受ける印象やイメージは、どうしても個々人によって差があります。ところが、この差異は、なかなかコミュニケーション中の前提としにくく、むしろ差異がないことを前提として言葉のやりとりをしがちです。だから、言葉の認識のズレはそのまま残り、誤解や行き違いが生まれる要因となります。

誤解なく伝えるためには、言葉の定義を意識しよう

言葉を使うということは、相手に何かを伝えようとするからです。もちろん、独り言のようなものもありますが、基本的にはコミュニケーションのために言葉があります。ということは、誤解のある状態で言葉を相手に渡してしまうのはもったいなくて、正しく伝わるに越したことはありません。言葉の意味には定義があるが、それは人によってズレていることも大いにありえる。だから、相手に伝えるときには、言葉の定義、言葉が持っている意味において、相手と認識を共有できているかに注意しましょう。ちょっと面倒くさそうですが、けっこう大切なことだと思います。

 


 



継続するときのひとつのコツ=他者のチカラを借りる

思考力トレーナーの永江です。
何事も継続してこそ、だと思います。特に人材を育成するようなお仕事をさせていただいていると感じます。学習塾だとハッキリと分かりますね。地味な演習を継続した子は成績につながりやすいし、そうではい生徒さんは「それなり」でしかありません。

だいたい、みんな、継続は苦手

大人になってから何かを続けようと考えたことは何度もあります。その中にはずっと続けていられたこともあれば、あっという間に続かなくなったこともあります。こういうことは他の人にもあると思うし、私のまわりの人たちにもたくさんいます。前の記事でも書きましたが、多くの人は「続けるのは難しい」と言います。私もそう感じています。自身では、どちらかというと苦手な項目だと思ってもいるので、「できるよ」と言うために工夫も考えています。そして、この記事のテーマそのものですが、他人に頼って継続しやすくするというのもひとつのコツです。

一緒にやることで続けやすくする

たとえば、学生時代にジョギングを始めて、それを続けていこうと思いました。きっかけは友人の軽い一言だったのですが、その友人と他の友人もあわせて3人で始めることになりました。そうすると、たったひとりでやるわけではなく、「あいつらと一緒に走る」という行為になるので続けやすかったです。一緒にやる人がいるから、楽しみながらできるし、ジョギングに関して言えば会話もしながら走れます。仲間がいると続けやすいと感じたことの一例です。

逆に、たったひとりで始めることになるから続けにくいのが日記など。基本的に他人に見せるものではないので続かなくなることが多いです。子供の頃から数えたら、日記や小遣い帳は、おそらく10本の指で足りないくらいの回数で三日坊主をやらかしています。

監視してくれる人を設定する

仕事面でいえば継続しないと問題があることがあって、それが継続できないとヤバいというものがいくつかあります。会社員であれば上司がチェックしてくれると継続しやすいです。他者が頼りというとちょっと情けない感じもしますが、うまく使えるものは上司といえば使えばいいです。

現在の私のような個人事業主だと上司がいません。そういう場合にはクライアント=お客様が監視役になることがあります。また、コンサルタントやコーチを雇って監視役をしてもらうことも考えられます。帳簿が苦手な知り合いが、それでも自社の会計をちゃんと把握するために、税理士さんを監視役にしているという話を聞いたこともあります。

自分だけだと弱いのが人間

人間は基本的に弱い生き物だと思います。自分ひとりだと本当にそう。だから、誰かを頼るというのはぜんぜん情けないことではなくて、一方的に頼り切るとしたらちょっと考えたほうがいいというていどのことです。他人を頼ること自体は悪くありません。

それは、継続するということについても同じなので、他者のチカラを借りるということも、継続のために考えていいのではないかと思います。

 


 


困難な問題にぶつかったとき、他者からの支援と自力解決とのバランス

思考力トレーナーの永江です。
考えるチカラを高めるためには、ちょっとした注意や心構えも必要です。

自力で解決できない問題にぶつかったときの違い

学習塾で指導をしていると、生徒さんが自力では解けない問題にぶつかっている様子を見ることがあります。ドリルやワークといった課題で、数学系や物理系理科などでよく見かけます。そういうときに、本人の性格が現れているのでしょうか、講師である私に頼ってくるタイミングに違いがあります。

分からないと感じたとたんにすぐにどうしたらいいか訊いてくる子。あるていどの時間を自力で考えることに充てたあとで、断念して質問をしてくる子。ひたすら自力での解決にこだわって、こちらから手を差し伸べようとしても拒否する子。さまざまです。

極端であることは避けて支援者を頼る

あまり早々にあきらめてしまうのも良くなくて、何かというと他者に頼ってしまうクセがついてしまう可能性があります。愛嬌があったりするとそれはそれで処世術として成立しそうですが、思考力を鍛えることにはつながりません。一方で、いろいろと自力で考えるものの結局は解決できない子の場合は、限られた時間の中での効率的な成長がしにくいといえます。

なにごとも極端であることには注意が必要であるように、この場合も、中間あたりにベストがあるように思います。もちろん、その子の能力や成長の度合いによってその中間点のベストも違ってきますが、とにかく、どちらかの極端を避けたいところです。あるていど考えても解決しないときは、講師=支援者を頼るのが良いです。

適度に考え続けることをヒントによって促す

自力で考えることをほどほどにして、塾であれば講師の私を頼ってもらうのが良いです。しかし、ここで講師=支援者である私のほうにも注意が必要となります。それは、答えや解法をそのまままるごと教えてしまっては思考力=考えるチカラを鍛えることにならないということです。相手の状況なども考慮しながらヒントを与えるていどにします。

ヒントを与えて、また考えてもらう。そのときもそれまでと同様に、あるていど考えても分からなければ次のヒントを出します。そうやって、生徒の様子をみながら、ていどの調整をしながら、常に考えつづけるように促します。

他者からの支援と自力解決とをバランスよく

これは塾での指導にかぎったことではなく、たとえば会社で教育係たる上司が部下に接するときにも考えられます。もちろん、学校で先生が生徒の指導にあたるときにも考えられます。育成ということを目指しているなら、考える機会は存在しつづけさせるのが良いでしょう。

しかし、ちょっと面倒なのが自力解決にこだわるタイプです。この場合はヒントをもらうことを拒否してきます。そういうときに、とにかくヒントを出すからという言い方ではどうどうめぐり。その問題を考えることを一旦停止させて、場合によってはヒントだけなら受け取るほうが自身のためにも、まわりの人のためにも良いのだということを諭すようにするのが良いと思います。

 

適度な自力解決志向と、適度な他者からの支援。
このバランスをとることが思考力アップのひとつのポイントです。

 


 


無駄を無駄だとスタッフは気づかないかもしれない【零細企業の人事】

人事系コンサルタントの永江です。
前回の投稿では、「人が足りない!」と感じたときに、もしかしたら仕事の無駄を削ったら人材不足が解消するかもしれない、というようなお話をさせていただきました。では、この、仕事の中にある無駄を従業員=スタッフは分かっているのでしょうか。

みんな一生懸命に働いている

不真面目で怠惰なスタッフが居る場合は実は話が簡単です。その人に指導をし、場合によっては改善が見られないときに辞めてもらうという選択ができます。でも、従業員の一人ひとりが真面目にやっている、あるいは少なくとも個々人の意識としては一生懸命であるときに、無駄があったとしても気づきにくいです。

仮に手待ちの時間帯があってその間の生産がないとします。その場合も、1日とか1週間という全体で真面目に働いているという思いがあれば、やっぱり「自分は一生懸命に真面目にやっている」と感じていると思います。このときの感じ方は、「一生懸命にやっているから無駄などあるはずがない」というものです。これは、無駄があるということがすなわち、自分が悪いことをしているという感覚になるからかもしれませんね。

無駄の把握は淡々と、人を悪者にせずに

「無駄」という言葉に対して、その対象となる人を悪く言うという感覚を持ってしまうのは仕方のないことだと思います。でも、無駄の把握はやっぱり必要です。だから、「あなたの仕事にこういう無駄がある」という指摘にならないように注意するのが良いです。

たとえば、「時間あたりの生産性を向上させたい」とか「手待ち時間に価値をつくりたい」とか、なにがしかポジティブな表現を考えます。具体的な言い方については、企業や現場によって変わるから、上記のものはあくまでも一例です。無駄の把握は淡々と客観的に行うべきであり、そこで人が悪者にならないような配慮をしてみましょう。

 

人は、なにか評価の類の言葉に対して感情をどうしても持ってしまいます。こっちが非感情的に、論理的に、客観的にと思っていても、相手がそうとは限りません。むしろ感情を排除するのはなかなかに難しいです。だから、そのことをアタマに置いておいて、どういう伝え方、表現の仕方がよいか考えることが大切なのではないでしょうか。

 


 


「適材適所」にこだわりすぎない【零細企業の人事】

人事系コンサルタントの永江です。
「適材適所」というと基本的にはそれは良いことで、そうするのが良いとされています。けれども、なにごともこだわりすぎると良くないもので、「適材適所」ということもこだわりすぎは良くありません。

部門の設定はあるていど以上の規模むけ

小さな会社であっても役割分担があり、それは、たとえば事務系の仕事であったり販売の仕事であったり、企画、製造、などなど、さまざまです。ただ、会社の中にある役割としての部門、特にその名称をイメージするときに、もともとのそれは大企業むけの設定であり、大企業とは言わないまでもあるていど以上の規模をもった会社に向いているものだと思います。

社長が技術屋さんである零細企業の場合に、営業を担当してくれる人を雇い入れるとします。この人には「営業部長」などという肩書を与えて営業をすべて任せたりするのですが、人数が少ないから営業だけをやっていればいいというわけにはいきません。社長と一緒に企画や製造に関わってもらうかもしれないですし、年度末には事務系の仕事を手伝ってもらうかもしれません。会社の中に必要な機能が部門の設定になっているはずなのですが、必要な機能ごとに部門を設定できるのは全体の規模があってのことなのです。

少人数における適材適所

チームのメンバー数が少ないとき、適材適所といっても限界があります。そのチームの中では比較的に向いているということがあっても、社会全体でみたらそれほど高い能力ではないこともあります。「うちではいちばん数字に強い」という人に経理をやってもらったらミスばかりで、税理士さんに叱られたという話も聞いたことがあります。この場合は、おそらく経理業務を外注したほうが良かったと思います。

また、企業をとりまく環境は常に流動的であり、会社が組織として発揮すべき機能はそのときどきでボリュームが変化します。たとえば販売にグッとチカラを入れたいときには、メンバー全員でそれに当たるのが良いかもしれません。そうすると、事務員として雇用した人にもなんらかの販売的な行動をお願いすることになって「私は事務ですから。」などとは言わせていられないかもしれません。

少人数のチームや組織だと、適材適所といっても社内でそれが賄えないことも多いです。だから、経理業務の例のように外注することを選択肢とするのと同時に、そもそも理想的な適材適所なんて組織内でできないことが多いという前提を覚悟しておくのも必要ではないかと考えます。

役割の自覚を限定化させない

そのときどきでやってもらう仕事や業務に変化がありえるので、部下に対しては、「あなたの仕事はこれね」と限定的には伝えないほうが良いです。「あなたは営業担当ね」と伝えた部下に、業務の関係上でどうしても急ぎの製造を手伝ってもらったら、「私は営業なんだけどな……」と心のどこかに不満を持ってしまう可能性があります。役割の自覚が「営業」という限定されたものになっているからです。仮に労働時間全体に変化がないとしても、「余計な仕事をやらされた」と感じるからです。時間の負荷は変わらないとしても、脳内の意識としてはボリュームが増えています。

だから、零細企業においてスタッフや従業員に持ってもらう「役割の自覚」は、たとえば「新旧顧客のバランスをとりつつ、我が社のサービスで喜んでくれる人を増やす」というように抽象的にするのが良いかもしれません。そのうえで、「いま何をしたらいいか」については社長の方針を明確に示して、常に考えながらやっていくよう促すと良いです。

 

適材適所そのものは悪いことではありません。けれども、部門の考えが一定以上の規模をもった組織むけであり、小さな組織では適材適所そのものが難しい場合もあります。無駄にマイナスな感情を従業員が持ってしまうケースも考えられるので、あまりこだわりすぎないようにしましょう。